こころの仕事ってなんだか知ってる?
こころはね、今ここにおらん人の顔を思い出すためにあるんだ

父ちゃんが南極に行っていた4ヶ月間、母ちゃんはいつもピリピリカリカリしていた
まだ赤ちゃんだった花はそれまでと同じようにニコニコしていた
そしてオレは毎日父ちゃんの顔をこころで思い出していたんだ




「氷海の彼方で -
夫の南極、妻の南極、子供達の南極

<概略>

一九九八年暮れ、二度目の南極観測隊に医師として僕は参加した。七年前の三十三次隊では一年越しの越冬隊に参加、そして今回は「たった四ヶ月」の夏隊参加だ。しかし今回の南極行きは前回とは違った事情があった。今回僕には家族がいる。つまり南極に行っている間、僕は妻と二人の子と離れることになるのだ。

二年前、医者を辞めてオーストラリアに一家で移住してからというもの、僕は主夫の毎日を妻と子供と一緒に過ごしていた。それだけにたかが四ヶ月といえども、僕には充分すぎる長さだった。そしてその四ヶ月は僕が感じていたよりも、生まれたばかりの花と二歳の春樹を一人で抱えなければならなかった妻、それといつも側にいた父がある日突然旅立ってしまった息子の春樹のほうが、遙かに長く辛く感じていたに違いない。自ら望んで参加した南極観測隊ではあったが、妻と息子の気持ちを思う時、僕はどうにもやり切れない気持ちになった。

「しらせ」出航に先立つ半年前、今回のオペレーションの準備作業のため僕ら一家は冬の西オーストラリア・パースから梅雨真っ只中の日本に渡った。一九九八年六月だった。僕は東京板橋にある国立極地研究所で、平日の五日間仕事のために寝泊まりし、週末は妻の実家銚子で妻と二人の子供と過ごすという生活を始めた。春樹にとっては、すでに馴染みの生活が一変したことになる。毎日一緒にいた父が「週末パパ」へと変身したわけだから。滑らかに回転していた春樹の時計の歯車に異物が飛び込んできた。そして不快な音とともに針の動きがぎこちなくなった。春樹にとってそれは不可解な変化だったに違いない。

思えばその時から僕ら家族の「南極」が始まっていたのかもしれない。

今回僕が参加するオペレーションは昭和基地から東に五百キロ離れたアムンゼン湾周域の地質調査だ。湾奧に位置する小島、トナー島にベースキャンプを設け、そこに二機のヘリコプターを持ち込む。

アムンゼン湾周域には、四十億年以上といわれている、世界で最も古い岩石帯(ナピア岩帯)が広がっている。その岩帯の調査は地球の成り立ちを知るという点で非常に興味深いものだが、広大な南極氷床を突き破ってそびえ立つ世界最古の山々に近づくのは容易なことではない。そこでヘリコプターを使って山から山へと地質学者を移動させるというオペレーションが持ち上がった。短い南極の夏の間にできるだけ広範囲に地質調査をしてしまおうという、いわば短期決戦的な計画だった。メンバーは地質と地形の研究者が八人(うち外国人三人)、ヘリコプターパイロット二人に整備士が二人。そして医師兼フィールドマネージャーとして参加する僕、の計十三人だ。

僕と妻は「しらせ」出航が間近いある日、この「単身赴任」の四ヶ月を無駄にしないにはどうしたらいいか、何とかポジティブな日々にする方法はないか、そういったことを深夜まで話し合った。一つのチームとしてやって来た家族から大事な一員が欠ける、その大きな穴はどうやって埋めればいいのか。このままだと誰も幸せになれない。

「本を書こう」、僕らはそう思った。これから起こるお互いの四ヶ月をそれぞれ書きとめ、「僕の南極」と「君の南極」をまとめよう。夫を南極に送り、その留守の間日常の些末事を一手に引き受けなければならない妻もまた、夫のリアリティーとは違う別の「南極の日々」を送っているに違いない。夫の南極、妻の南極、つまり二人の南極。もちろん、そこには「春樹の南極」もある。南極に行くものだけが南極を経験するわけではない。

そして秋十一月中旬、「しらせ」が東京晴海を出航した。二週間後「しらせ」は生鮮食糧品の積み込み等で西オーストラリア・フリーマントルに寄港するが、そこで僕は空路パースに戻っていた家族としばしの再会を楽しむ。僕の留守中、妻と子供達はホームグランドのパースで暮らすのだ。そして五日後の「別れ直し」。「しらせ」はフリーマントル港を発つ。出航の朝、妻から手紙をもらった。それにはこう記されていた。

今朝七時半頃、「とうさんは?」と言いながら春樹が目覚めました。
これから幾日か、私達はこういう朝を迎えるのでしょう。
「『しらせ』に載って南極へ行くんだよ。」
「けんきゅうと、おふねと、なんきょくと、たたいちゃう。」
「うん、母さんもたたいちゃう。」
「かあさん、とおさん むかえにいこう。」
「うん、迎えに行こうね。沢山ねんねしてから日本の飛行場まで迎えに行こう」
私は泣いて、春樹もちょっと泣いて、
春樹は泣きながら私にティッシュを取ってくれました。
それから春樹は理由もなしに時々激しく咳込み、
抱きしめると小さくギリギリと歯ぎしりしている音が聞こえる・・・。
男たちよ、覚えておくがいい。
あなたたちの がくじゅつけんきゅう とはそういうことなのだ。
それは幼い子供たちの涙と咳や
歯ぎしりさせる程の大きなストレスの上に
成り立っているという事を。
そういう子供たちのもとへ
元気で無事に帰って来る事は
あなたたちの義務なのだ。

 十二月のオーストラリア。夏の明るい空の下、観測隊六十人、乗組員約百七十人を乗せ「しらせ」は南極に向かった。そして十二月二十一日、アムンゼン湾地質調査隊はトナー島に立った。しかしそこには前年に建てられていたはずの二棟の小屋のうち一棟が消えていた。ブリザードで跡形もなく吹き飛ばされていたのだ。だが僕らは躊躇なく当初の予定通りにオペレーションを立ち上げた。新規に二棟の小屋を建て、ヘリポートにアンカーを打ち込み、ヘリを強風から守るための防風ネットを張った。四日後、作業支援者をピックアップして「しらせ」は昭和基地へと去っていった。

その夏は異常だった。極冠高気圧の勢力が例年に比べて遙かに弱く、そのため南氷洋を周回している低気圧が南極沿岸に次から次へと押し寄せてきたのだ。南極の夏、いつもならそれは「別天地」と称されるほど美しく輝く快晴の日々だ。しかし僕らがトナー島にいたあの夏は、毎日が風との戦いだった。追い打ちをかけるようにアクシデントが続く。メインの発電機の故障、防風ネットの倒壊、無線機の不調、しかしどれも「致命的」ではないと言いつつ、僕らは積極的楽観的に乗り切ってきた。そして一月七日から三日間吹き荒れた強大なブリザードでついにヘリコプターがダメージを受けた。予定の一割も飛ばないうちに僕らのオペレーションは中止になった。メンバーの落胆。

妻はその知らせを半ば感謝の気持ちをもって聞いた。ダメージを受けたのが人でなくて良かった・・・。

僕が南極で「明確な何か」と対峙しているとき、妻は「不明瞭な日常」と戦っていた。日常生活の些末な煩わしさ、家事、子育て、中でも子供達の病気。僕の留守中、銚子から妻の両親が応援に来てくれていたとは言え、やはり妻が「家庭」をマネージしていたわけだから、全てを抱えて妻は時々途方に暮れた。

子供達の存在がそんな妻の気持ちを支えていたのは間違いない。しかし時に春樹のワガママが、妻の感情を激しく揺さぶった。妻は怒り、嘆き、悲しみ、そして落ち込んだ。辛さや悲しさを共有してくれていた夫はここにはいない。春樹のぎすぎすした心を癒してくれる父はここにはいない。妻は不安定な感情の波に何度ものまれそうになった。でも結局そこから救い出してくれたのはやはり子供達だった。

アムンゼン湾で手足をもがれた我々は再び「しらせ」に収容され、昭和基地のあるリュツォ=ホルム湾に向かった。夏の残りのひと月をそこで過ごすことになったわけだ。まさか今回は来ることはないだろうと思っていた昭和基地で僕は夏作業の一労働者として働いたり、時には地質調査のメンバーの支援と称してリュツォ=ホルム湾周辺の露岩キャンプに参加したりした。やっといつもの夏の輝きを取り戻した南極に皮肉にもそこで再会できた。

二月下旬、「しらせ」が昭和基地沖を離れた。約一月の船旅の向こうに家族の顔が浮かぶ。僕の、妻の、そして子供達の「南極」が終わる。

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