日本滞在2週間記

日本滞在記-旅立ち編

先日、3月6日から2週間、僕は日本に行っていた。来次の南極観測隊候補者を集めての「冬季乗鞍岳訓練」に参加することと、候補者の選抜に必要な「健康診断」(極地研究所の案内によると「身体検査」)を受ける必要があったからだ。

問題は妻の妊娠。もちろん妻の妊娠が、訓練や僕の健診に影響する訳じゃない。問題は、すでに30週を超えている巨大なお腹を抱えて、10時間も飛行機に乗るのはしんどい、だから一緒に行けない、そうなると2歳になったばかりの春樹をどうするか、ということだ。

結局、僕が春樹を日本に連れて行く、ということになった。成田に着いてしまえば、妻の実家、銚子の爺婆が迎えに来てくれる。だから、夜にパースを発ち朝に成田に到着する、カンタス機での十時間を平和につつがなく過ごすことができれば、後は何とかなるだろうと思い、腹を括った。僕が訓練で信州に行ったり、健康診断で上京する時には、実家の義父母が春樹を引き受けてくれることになっていたし。

その計画でうまくいくだろうと思っていたが、ところで、妻が春樹とこんなに長く離れるのは初めてのことだった。以前隠岐之島で暮らしていた時に、妻はある講演を聞くために松江に独りで行き、一泊したことがあったが、それが彼女が春樹と離れていた最長時間記録だった。今回は二週間。しかも妊娠後期で、心身ともにストレスに対していくぶん過敏になっている。春樹に対する心配−つまり、飛行機に十時間もおとなしく乗っていられるかということや、日本で僕がいない間、爺婆だけで大丈夫かということ−も勿論あったが、臨月を間近にした妻に対する心配も実はそれ以上にあった。しかし、そんな心配をしているなんて、行く前にはかけらも妻には見せなかったつもりだ。心配をしているという態度が余計に彼女にストレスを掛けるんじゃないかと思っていたし。

出発の一月前辺りから、今回のしばしの母との別れを、ことに触れ春樹に何度か話していた。彼は話すのがまだまだ充分じゃなく、幾つかの単語、例えば「りんご」「ひこーき」「りえ(母の名)」「ちんちん」という言葉をちょこちょこと使うばかりで、「はるき、いく」とか「りんご、ちょーだい」なんて二語文はまだまだ先のことのような状態だった。男の子は話すのが遅いとよく言われますが、ほんとにそのようですなあ。そういうデータが医学上ちゃんとあるのか分からないのだけど(実際これまでそんな記載を医学書で見たこともない、いや、単に私の不勉強のせいだけかもしれないけど)、身の周りの例はほぼ間違いなくそれを裏付けている。それから、二カ国語環境で育っていることも、それを助長しているようだ。家の中では基本的に日本語で春樹に話しかけているが、テレビやラジオからは英語が流れてくるし、週に二回行っているプレイグループで、一緒に遊ぶ子供達は皆オーストラリア人だし、彼の言語中枢はだいぶ混沌としているんだろうなと想像する。

そんな具合で、春樹の言語能力、正確に言えば、話す能力は発達のほんのスタートの所にある。だけど、ほとんど教育方針やら子育ての方針を持たない僕等の、ほぼ唯一の方針として、「分かっているのか分かっていないのかはともかくとして、できるだけちゃんと何でも正面から説明する」を心掛けている。叱る時も、何が悪かったのか説明しながら叱るようにしているし、なんで俺がこんなにお前に腹を立てているのかを、腹を立てながらも説明しようと心掛けている。しかし、時に爆発する「ばかたれ!」状態の時に、なんで今俺はお前に「ばかたれ!」と叫んでいるのかを説明するのはなかなか大変なことです。

とにかく、ひと月前から何度となくこの日本行きについて説明してきた。例によって分かってんだか何だか、妻や僕の話を聞きながらヒコーキがどーのこーのと春樹語の返事が返ってくるだけだったが、あれは出発の2日前のことだ。夕飯をあらかた終えたところで、妻が春樹にややにじり寄って正面から語り出した。

「春樹、春樹はね、あと一回寝たら、おとーさんとひこーきで日本に行くんだよ。でもね、理江はお腹が大きくて大変だから、お腹の赤ちゃんとお家でお留守番。しばらく、って言ってもたった14回寝るだけだけど、春樹と理江はバイバイなの。でもちっとも寂しくはないんだよ。日本に着いたらね、銚子の爺ちゃんと婆ちゃんが、春樹早く来ないかなー、って楽しみに待っているしね。おとーさんも一緒だよ。だから、だいじょうぶ。ねえ、だいじょうぶだね。」

大丈夫じゃないのは、明らかに妻の方だった。春樹に話しているそばから目が潤んでいるし、あーあ寂しくなるなーというオーラが全身から漂っているし、これはもう明らかだった。春樹にとっては、日本と言われても何の事か分かるわけもなく、14回って、いったい何回なんだというクレームもあるはずだし、いずれにしても妻が語る「意味」は春樹には理解できていなかったに違いない。だけど、妻の寂しさと悲しさ(実際だいぶ悲しんでいた)は、春樹に十二分に伝わっていた。食事が終わるとたいてい食器やら食べ残しやらで遊び、注意散漫コップ破損の春樹だが、妻のその話の時は、じっと妻の顔を見つめ緊張した面持ちで、なんだか怒っているようにも見えた。話が終わっても春樹は下を見つめ、突然降って湧いた人生の大悲劇に、真摯な青年が打ちのめされているようだった。

慌てたのは逆に妻の方だ。明後日旅立つことをきちんと説明し、春樹がその出来事に対して無防備にならないようにという「はからい」で話し始めたつもりだったのが、こうも深刻に受け止められてしまったのに驚き慌てていた。 「心配なーい、おとーさんも爺ちゃんも婆ちゃんもいるんだよ、大丈夫大丈夫」 などと笑いかけてみても、もうだめだ。2歳の春樹はうつむいたまま目を赤くしている。 「あ、そーだ、アイスクリーム食べようか、春樹の大好きな。おいしーよー。ほらっ」 春樹も他聞に漏れず甘い物好き冷たい物好きだ。どんなに腹いっぱいでも、果物お菓子冷しもの一切いつでも行きますの子だ。だけどその時は、目の前に置かれたバニラアイスを見ても、ただうつむいているだけで触ろうともしない。

2歳になりたての健康な子供が、アイスクリームを目の前に置かれても見向きもしない精神的なショックとは、いったいどれだけのものなのだろうか。それは僕にとってなんに値するものなのだろうか。例えば、夏の海に昔の悪友どもと行く。がんがん遊ぶ。腹が減る、喉が渇く、さあ、バーベキューだ、ビールだ!そこで僕はこう言う。「オレ今ちょっとショックなことがあってビール飲む気がせん。すまんが先寝るよ」とまあ、それぐらいのショックなのだろうか。いや、何だか下賎だなあ。全然違うや。

結局、春樹はその晩アイスクリームを一口も口にせずに寝た。僕も妻もただ驚いていた。ただ一つ言えることは、妻が大丈夫でなければ、春樹は決して大丈夫にはならないこと。春樹のあの態度は妻の心そのままの鏡だったわけだ。僕らはしばらくそんな話をしていた。

さて出発の時。妻はできるだけ明るく僕らを、特に春樹を、見送った。パース国際空港の搭乗ゲートをくぐるとき、春樹は僕に抱かれたまま、あっけなく、むしろそっけないくらいのバイバイの手振りで妻と別れた。でも僕にはそのバイバイの素振りが、淡泊な別れと言うよりは、彼なりの母に対する思いやりと、所詮は俺も一人なのだといった潔さにさえ感じられた。

そうなのだ。われわれは所詮一人なのだ。

カンタスQF79便は、予定通り22時10分にパースを飛び立ち、春樹は離陸するや否や機内食も食わずにかくんと眠りに入った。翌朝、朝食の支度で機内がざわめくまで、むずることなくぐっすり寝ていた。 こいつは両親が思っているより、ずっと大丈夫な奴なんだなあと、少し逞しくなった寝顔を見ながら僕は思った。

日本滞在記-入国編

十時間の飛行時間のうちの8時間半を寝て過ごしていた春樹は、目を覚ますと同時に、貪るように子供向けメニューの朝食をとり、そして終わるや否や息み始めた。いつもの一日の始まり方だ。ストレスはまず便通に来るのが定説だから(経験的にそうだ。そうでしょう?)、僕は慌てることなく、むしろほっとした気持ちで春樹を抱え機内トイレに入った。

さて、これを読んで下さっている方の中で、どれだけの人が機内トイレで子供のおむつを替えた経験があるでしょうか。あの中でおむつを替えるのはなかなか大変なことです。替える方も大変ですが、替えられる子供の方も辛いものがあります。まず何といっても狭い。折り畳み式のおむつ交換台が大人用便器の上のスペースに現れはするが、長さというか幅というか、それがあまりにも寸足らずなので、子供を横に置かなければならない。頭と足元はトイレの壁だ。つまり子供の横っ腹に立った状態でおむつを替えなければならなくなる。しかもその交換台は硬く冷たく、さらにトイレは狭く圧迫感があるし、ときどき揺れるし、親はいつもと違う変なところに立っているしで、子供も全く落ち着かない。泣き出す始末だ。となりゃ、とにかく力ずくで行くしかなく、どったんばったんでなんとか事なきを得たが、いつもの三倍くらい時間がかかった。

提案である。今やどこの公共施設、ショッピングセンターに行っても障害者用のトイレが完備されている。日本はともかく、オーストラリアはそうだ。しかし、授乳室や、おむつを替えるスペースの普及はまだまだ。パースでいちばん大きなホテルにさえ、それらはなかった。早急にペアレントルームの広い導入を求む。そして、国際線航空機内に一つでいいから広いトイレを設けるべきだ。狭いトイレで不自然な格好で泣く子供はもちろん弱者だが、なれない格好でナニの付いたおむつを処理しなければならない親も弱者的状況にあると言ってよい。

当機は間もなく新東京国際空港に到着いたします、てな具合で、おむつからシャツから何からすっかり着替えて冬支度を整えた春樹と、朝の大仕事をやり終えた満足感に満ちた僕を乗せたカンタス79便機は成田空港へスルスルと到着した。前日はまれにみる大雪だった関東平野は、その日雲一つない晴天だった。

入国審査と荷物の検査で、日本人検査官のチェックを受けたのだけど、彼等は一言も喋らなかった。だからほんとに日本人だったかどうかわからないと言ってよい。僕は喋った。「おはようございます」、「荷物はこの二つです」。春樹は彼等にバイバイをした。しかし、彼等は何の反応もなく、「おはよう」の一言もなかった。忙しいのか、疲れているのか? 海外の事例を持ち出して、日本はどーだこーだと批判するのは、なんだかフェアじゃないようで趣味に合わないことだが、しかし基本的な挨拶ってのはそれ以前の問題だろう。

夜9時を回ったパース国際空港の出国審査官はそんなことはなかった。白髭の体格のいいおっちゃんは、僕の出国カードの職業欄の「無職」の記載を見て、「日本では何をやってたんだい」「医者だ」「ここでは難しいだろう」「ああ、オーストラリアでは日本の医師免許が使えないからね」「そうなんだ、それは大きな問題だよ」とこの後、白髭氏のオーストラリアの政治批判にまで発展しそうな雰囲気だった。僕の後ろには何人かの行列があるし、「いつかうまく行く日が来ることをねがっているよ」と言って、彼にさよならを言った。「いい旅を」、エスカレーターに乗った僕と春樹の背中に彼の言葉が聞こえた。出国カードの職業欄は「医師」に訂正されていた。

成田空港にいる大勢の審査官のうちのたった二人の振る舞い、パース空港のあまり多くない審査官のうちの一人の振る舞い、それだけの比較でものをいうのはナンセンスなのだろう。しかし、日本で生まれ育ち、現代の日本人の大まかな有り様を理解していて、そして、ここパースに移住して一年余の間に身の回りのオーストラリア人を見て思うのは、やはり人対人の基本的なコミュニケーションがどうなのかということだ。僕は久しぶりの日本のその入り口で非常にがっかりした。たとえ彼等が深夜勤務の交代間近で疲れていたにしても、入国審査を受ける人達もまた長時間のフライトで疲れていたんだぞ、ばかちん!

不愉快な思いはしたが、とりあえずスムーズにもろもろを通り過ぎ、自動ドアをくぐり抜けた。トローリーの上に大型のスーツケースを寝かせて置き、その上に山用のザック、そしててっぺんに春樹を王様のように座らせ、ゆっくりと押していると、右の方から「おーい、おーい」の声。義父が春樹を呼ぶ声だ。最後に会ってから四ヶ月が過ぎていたが、春樹はその声に反応し、笑いながらザックの上で跳ねた。春樹の視線の先には全身で微笑んでいる、じいちゃんばあちゃんがいた。ためらいなくじいちゃんに抱かれた春樹を見て、僕はほっとした。  


日本滞在記-望郷あるいは忘郷編

結論からいえば、春樹はよくやった。「よくやった」という言い方は、自覚をもって何かを成し遂げた人に向ける言葉なんだろうが、春樹に自覚があったかどうかは確かめようがないとしても、よくやったとしか言いようがない。

たとえば、僕が乗鞍へ冬季総合訓練に行っていたときのこと。四泊五日、春樹は銚子の祖父母、それから沖縄から駆けつけた(もちろん久しぶりの孫に会うために)僕の母を含め、三人の爺婆と過ごした。春樹にとってみれば、母と別れただけでなく、父ともしばらく別れることになり、いくらなんでも少しはショックを受けるだろうと皆予想していたが、それは杞憂だった。

僕が留守のその五日間、春樹が泣いたのはたった三回しかなかったらしい。彼のアベレージからすればこの数字はファインプレーを意味する。

一つは浣腸された時。僕が乗鞍に出発する日の前の晩、十二時頃、皆すっかり寝静まって、さあオレも寝るかという矢先に、隣で寝ていた春樹が起き出して、突然泣き始めた。寝ぼけて泣くことはそう珍しいことではないが、その時の泣き方は、そんなだらだらとした感じじゃなかった。明確な理由のある、まるでどこか痛いような、鋭い泣き方だ。抱き上げてあちこちさすったり、話しかけたり、撫でたり、とにかく泣き止ませる努力をした。それでも泣き止まないので、いよいよ変だと思い、聴診器も耳鏡もないなりに、五感を使って診察した。あちこちゆっくり押して泣き声の変化を見る。胸に耳を当て呼吸音を聴く。あれこれしてみると、どうやら腹が痛いらしい。ゆっくりと触診を繰り返し、子供で気を付けなければならない、いくつかの重要な救急疾患を除外した。そして得た結論は、どうやら便秘による腹痛じゃないだろうか、ということ。快食快便の春樹が、その日は一日ウンチをしていなかったことを思い出した。ゆっくりと腹をさすり続けてやると、その内落ち着いてきて、鼻をすすり上げながら再び寝た。結局小一時間は泣いていただろう。その後は朝までぐずりもせずぐっすりだ。朝飯もいつもどうりにどっさり食った。朝食のテーブルで僕は、皆が寝た後に起こった夜泣きのことを話し、便秘によるものだと思うから、そう心配は入らない、しかし、今日も便が出ないようなら浣腸をした方がいいだろうと、伝えた。そして銚子駅で僕を見送った後、すぐさま浣腸されたというわけだ。それが一回目。その後便秘も夜泣きもなし。快食快便を続けたとのこと。

二つ目は電話で僕の声を聞いた後。位ヶ原の雪中で野営をした一日を除けば、毎晩、乗鞍のすずらん小屋から銚子に電話を入れていた。「おう、全然問題ないぞ」「こりゃ、もう、親を忘れているな」てな返事がいつも義父から返ってきたほど、春樹は機嫌良く、爺婆と楽しい時間を過ごしていた。ある晩、いつものように僕が電話を入れた。春樹の耳元に義父が受話器を当ててくれたが、テレビに夢中だったらしく、「おーい、はるきー、元気かー」と叫ぶ僕の声に全く注意を向けず、受話器を払いのけた。「まあ、そういうことだ。親はもういらないらしいぞ」と義父のからかいに、くやし笑いをしながら電話を切った。その直後、テレビの刺激に占有されていた大脳にやっと僕の声が到達したのか、突然慌てたように春樹は受話器を要求し、耳に当てたらしい。しかしもはや聞こえるのはピーピーピーという発信音だけ。僕の声を期待した、その期待とのギャップにかなり失望したらしく、どうしようもなく激しく泣いたらしい。「やはり親じゃないとダメなのか」と義父の弁。面目躍如。

三回目は時計を壊したとき。春樹の喋ることの出来る数少ない単語の中に、数字の「2」がある。二歳の誕生日を機会にしつこく憶えさせられたのと、うちのユニットナンバーが「2」なので、そのドアに書かれた数字を指さしているうちに憶えたことで、彼にとっては数字の2は非常に親しみのあるものらしい。ちなみに他の数字はまだ明確には判断できない。その数字の2を、銚子の家の応接間に見つけたらしい。デジタル時計の表示だ。といっても、今風の液晶の表示じゃなく、数字を書いた小さな板がパタパタとめくれるやつ。それに「2」を見つけたらしいのだが、そのうち2がめくれて向こう側にいってしまい、消えてしまった。不満に思ったのか、不思議に思ったのか、あるいは探求心が芽生えたのか、それは誰にも分からないことだが、爺婆が気付いたときには、もはや元には戻せないほどにばらばらにされた時計が床に転がっていた。そして、その側で春樹は何枚下の数字片を持ちながら泣いていたらしい。壊してしまった驚きと反省からなのか、どうやっても結局「2」が見つからなかったからなのか、それも誰にも分からない。義父の意見では後者らしいが。

こうして書いてみると、子供とはいえ、泣くということには一つひとつにきちんと理由があるのだなあ、と感心する。泣くこと自体は、感情ではないのですね。うれし泣きとか、くやし泣きとかいうように、泣くということは、ある感情の極端な表現型に過ぎないのだろう。どうりで子供はよく泣くわけだ。何かにつけ極端だからなあ。

ところで、五日間の訓練を終えて銚子に戻ってくると、改札口でじいちゃんに抱かれて春樹が待っていた。登山用のザックを背負って出てきた僕に、飛びついて来て首に抱き付く。僕も嬉しくなりぎゅーと抱き上げる。しばらく僕を離さないんだろうなあ、と思っていたが、それだけだった。その後特に僕に甘えるわけでもなく、僕がどこかに出かけるんじゃないかと気にするわけでもなく、まあ、いつも通りだった。理江との別れを思い出して、やっぱり、こんなもんなんだろうと思った。こちらが、つまり親が心配するほど子は心配していないんだ。

だが、そうでもない。僕はそれから、二度銚子を留守にしたのだが、実は春樹は僕が銚子駅でバイバイをするのが、こたえていたらしい。三度目の駅での別れの時、彼はとても怒った顔をして、義父に抱かれながら、僕の胸を突いた。まるで、「おまえなんか、さっさとどこへでも行ってしまえ」といった突き放し方だ。そして、さあ行こうと、じいちゃんに合図を送るように、ぷいと顔をそらした。あれは明らかに僕に対する抗議のしるしだった。こちらが、つまり親が大丈夫と思っているほど、子は大丈夫じゃないんだ。

その、胸と心を突つかれた日の夕方、僕と春樹は成田を発ち、再びパースに向かうことになる。母とのしばしの別れを皮切りに、おそらく春樹にとってはだいぶ不本意な経験をさせられた今回の旅だった。そのためだろう、成田でも彼は爺婆との別れをよく悟っていた。空港内を散歩したり、一緒に夕御飯を食べたり、だっこされたり、空港の床の上でじいちゃんと転げ回ったりと、いつもと同じようにはしゃぎ回っていたが、さて時間だという時になると、神妙な、寂しさをこらえたような顔つきになり、涙を浮かべている婆達や、無理に笑っている爺に向かって、手をニギニギし「バイバイ」をした。僕に手を引かれながら、振り向き振り向きバイバイをしていたが、ゲートを進み彼らが見えなくなると、僕の顔を見上げた。僕は春樹に向かい、「行こうか、理江が待ってるパースに行こうか」と言った。春樹はしばらく考え、小さな声でひとこと「いこか」と答えた。

「よし、おうちにかえろう」鼻の奥がちょっと痛くなった僕はそう言い、春樹を抱き上げて搭乗待合い室に向かった。パースまでほんの十時間、おまえにとって、ほんの一眠りだ。

(おわり)