「カンパイ」の日々
 98.02.24

春樹が「乾杯」を憶えた。始まりは非常にありふれた乾杯だった。食卓での飯の最中にカチャンとやったのが、まあおそらく最初だろう。春樹はプラスチックのコップに麦茶だか水、理江はガラスのコップにおそらく麦茶、僕は缶ビールを缶のまま。飯を食い始める時あたりに「ハルキ、カンパーイ」、と理江のコップと僕のビール缶が春樹のプラスチックカップをコツンとたたく。そんなことを2日もやればこいつは簡単に「乾杯」の儀式を身に付けてしまうのだ。

まずは、やはりコップ対コップから始まった。その忙しいこと。飯が始まるや否やコップで「カンパーイ」。こっちがラーメンの麺をかき込んでいるときだろうと、なかなか噛みちぎれない牛肉に食らいついているときだろうとお構いなしに、コップを持ち上げて乾杯の要求が突然来る。それから間もなくすると、味噌汁の器同士で「カンパーイ」、御飯茶碗で「カンパーイ」、皿を持ち上げて「カンパーイ」と来た。コップ以外で来たか、と思う間もなく、今度はお箸、スプーン、フォークでがしゃがしゃと「カンパーイ」。とにかく同じモノを探しては「カンパーイ」だ。しかし例えば、透明ではあるが黄色い模様の付いたプラスチックカップと、似たような大きさだけどガラスのコップは「同じ」モノだろうか。似てはいても同じではない。その二つを「カンパーイ」で締め括れるのは、実は大変なことなんじゃないだろうか。なにも自分の子を天才じゃないだろうかと、親バカぶりを発揮するつもりじゃない。昨日出来なかったことが今日突然出来るようになるのを見ていると、これまで見逃していた諸々のことが気になってしょうがなくなってくるのだ。

ところで乾杯の続き。モノ同士で始まった「カンパーイ」は、体の名称を憶えるに従ってその概念を拡張していった。「手」やら「足」はそもそも春樹自身の手や足を指し示すことから始まったのだが、風呂の中での訓練の成果で、春樹の手、父さんの手と、手にもたくさんあることをこいつは学んだ。所有の概念と言ったらいいか、つまり、この手は誰に属するモノか、を学んだ。だから必然的に春樹の手と、父さんの手で「カンパーイ」となるわけだ。足と足で乾杯(この場合は浴槽から高く足をあげるよう要求される。考えてみると乾杯の時コップを高くあげてるなあと納得)、それから鼻と鼻で乾杯、ちょっと複雑な気持ちで口と口で乾杯。

なるほどなるほどと感心しながら毎日付き合っていると、ある日春樹が、一緒に入っていた湯舟の中で「チンチン」と言って、自分のそれを指さした。そして俺のナニを指さし、また「チンチン」と言う。うん、体の単語、なかなかよく憶えているじゃないか、と感心していると、我が意を得たりという表情と若干の照れ笑い(ほんとか!)を浮かべ、浴槽の中を大股開きですり寄ってきた。そしておもむろに「カンパーイ」の請求。参った。まさか僕も風呂の中で股を開いてずりずりとすり寄っていくわけにもいかないし、もとよりそんなに体が柔らかくない。教育的見地から言えば、ここは臆することなく乾杯を成し遂げるべきなのだろうが、とにかく僕は不意を付かれ、笑いが止まらずもう乾杯どころじゃなかった。僕の大笑いに何事かと駆けつけた妻もこの状況に笑い転げ、春樹もよく分からないままケラケラ笑い続けていた。その後も何度か風呂の中で、チンチン乾杯を求めてくるが、それだけはご勘弁をと、勘弁願っている。まあ、父と子が股を開いてチンチンを寄せあう光景も美しいものだとは思うが、そうだなあ、やっぱり今度は付き合ってみようかなあ。

そうこうしているうちに(どうこうしているというのか?)、この辺からちょっとまた変化。例えば食卓で、スプーン同士の乾杯は勿論のこと、スプーン対フォーク、フォーク対お箸、さらにはスプーン対コップというように、必ずしも同じもの同士じゃなくても、乾杯の対象として成り立ってきた。この変化に、「ふーん、つまり同類項をまとめているわけだ、グループを作っているんだな」と僕は感心していた。ある暑い日、庭で落ち葉を掃いて水を撒いていたときのこと。庭箒を春樹にあずけてそのへんを適当にやってもらい(ちゃんとしてもらおうと思ってはいけない、適当に、が基本です)、僕はポットに植えたバジルやらイタリアンパセリにホースで水をやっていた。そこへ春樹が箒を高くかかげて嬉しそうに笑い、「カンパーイ」と言いながらこっちに向かって来た。ん、箒と乾杯できるもの?、と一瞬僕は悩んだが、こいつは僕の持っているホースの先っちょにホウキの先を当てて来た。なるほど、そうきたか。こいつの中では、庭で作業するもの、という同類項が箒とホースの間に出来上がってたわけだ。

同類項を結ぶとはつまり、具体的なモノを抽象化する能力を指すんだと思う。例えば今日、理江が春樹のウンチおむつを替えているときのことだ。僕はこいつの両手がウンチまみれのチンチンやケツに行かないように、しっかり押さえている役目を果たしていたのだが、大方のブツがティッシュによって持ち去られた後、最後の仕上げのおしり拭き(濡れティッシュ)が、ケツを直撃した。その瞬間、またも春樹の「カンパーイ」の大声。ううむ、僕は唸りながら笑った。いや、笑いながら唸った。これはどういう抽象化だろうかと。おしり拭きとケツは、僕ら大人からすれば、簡単に同類項にくくれる。名前からして親戚みたいなモンだ。しかし春樹にとってみれば最近憶えた「おしり」と、名前も知らない、単に濡れた紙だ。つまり、ウンチをした後にケツに最後に触れる濡れた紙、という具合に細部に渡り特化したモノのわけだ。ある状況のもとでのみ成り立つ「カンパーイ」なわけだ。ここにオシリがあって、あそこにオシリ拭きがあって、それをそれぞれ持ってきて「カンパーイ」というわけではない。しかも、シッコと濡れティッシュは乾杯でない、ウンチと普通乾燥ティッシュも乾杯でない。そういうわけだ。ことは結構ややこしい側面をはらんでいる。拡大解釈された乾杯は、ある状況のある組み合わせのみ、という具合に今度は逆に狭まった解釈になってきた。これはなかなか高度な抽象化ではないですか。

あくまでも申し上げておかねばならないのですが、ここで書いていることは、うちの息子の天才ぶりを親バカの私が報告しているのではなく(もちろん春樹が天才ではないと言っているわけでもありませんが)、なんとなく僕らが到達してしまっているこの普段の生活のバックグランドのことを言っているのです。僕らはいとも簡単に乾杯をしている。ジョッキについだビール、ワイングラス、泡盛の水割り。居酒屋に行けばそれこそあちこちで一晩中乾杯だ。しかし、その乾杯のグラスの代わりに鍋をかかえる奴や、箸を差し出す奴、靴とか箒とかを持ってくる奴は(たぶんおそらくそんなに)いないだろう。これはそんなに簡単なことか。

液体の入ったコップ同士、そこからスタートした春樹の「カンパーイ」は、ちょっとの共通点さえあればどんな組み合わせでも成り立つ同類項乾杯へと拡大した。そしてケツと濡れティッシュという特別な関係の下での乾杯に進む。この関係は乾杯概念の拡大と考えたくなるが、実は同類項概念の収束だ。その行き着く先は居酒屋のジョッキ乾杯だろう。「普通」の僕らの社会では液体(たいていはアルコール入り)の入ったコップのようなモノ同士を軽くぶつけ合うことを「乾杯」という。その「普通」に向けて春樹の乾杯概念は拡大、収束を経てたどり着くのだろう。もはやこいつは一歩手前まで来ていると僕は思う。

生後数日、片手にも余る小さな小さな春樹を抱いて、隠岐のかつての家の庭に出たときのことを思い出す。よく晴れた冬の日だった。寒いから外に出しちゃダメだ、という妻やババらの声を背にして、春樹とともに玄関を出た。透明な空を見つめるその時の春樹の顔。世界が空から降りそそいでいる、あの時の春樹は全身でそれを吸収しているようだった。それからずっと、こいつは世界を吸収している。吸収した分を放出し、こんどは世界を試している。触れたり、叩いたり、舐めたり、食べたり、声に出してみたり、「カンパーイ」と言ってみたり。

この驚くべき変化、いや変身が、すべて僕らの身に起こった、辿ってきた道だったとすると、僕らもあながちではない。皆かつて「天才的」な日々があったわけです。あった、という過去形なのが少し寂しいが、幸運にもそれを思い出させてくれる小さな存在が、僕らの回り、あちこちにいる。

98.02.24