移民達の語学学校(2)
 97.09.26

オーストラリアは米国などと並んで世界に名高い移民の国だ。百二十数カ国からの移民がここで生活している。当然そのバラエティーさは語学学校にも反映される。僕の通っている語学学校は政府が提供している移民のための無料の学校で、AMES( Adult Migrants Education Service ) という初級のコースや、MAE ( Migrants Advanced English course ) といった中級クラス、とまあその他にもAEP、CAPE(何の略号だったのか思い出せなくなってきたが)等、とにかくほんとにいろいろ用意されている。その全てが無料だ。大学入試にしても、高校を卒業したばっかりのオージー(オーストラリア人のこと)は大学に行くためにはTEE(日本で言う共通一次試験、ん?今はセンター試験って言うんでしたっけ)を受けるしかないのだが、移民にはその他にもいろんな便宜が図られていて、大学に行くためのルートがいくつも準備されている。至れり尽くせりの待遇に、「逆差別」( 'Positive' Discrimination )されているんじゃないかと思うほどだ。

移民と一口に言っても勿論いろいろある。例えば、オージーと結婚してここにやってきたアジア人。インドネシア、香港、タイ、シンガポール、そして日本。それから、すでに移民していた家族親類に呼ばれたり、訪ねてきたりという人々。だけどもっとも印象深いのは、難民としてここにやってきた人達だ。政治的な緊張や迫害、実際の戦闘の中からまさに逃げ出してきた、いや、逃げ出すことのできた人達が、僕のまわりにもたくさんいる。そして今いちばん多くの難民を作り出している地域は、旧ユーゴスラビア圏だろう。僕の通っているクラスの15人のクラスメートの内、6人が旧ユーゴスラビアのボスニアからの難民だ。ユーゴスラビア、ボスニア、クロアチア、セルビアそう言った地名はほんの少し前まで、つまり日本でまだ生活していた頃までは、新聞やテレビで目にしたり、耳にしたりしただけのものだった。まさにあの紛争は僕の生活にとって、対岸の火事であり、それ以上の何者でもなかった。だけど実際に戦闘をくぐり抜けてきた人々とここで知り合い話をしているうちに、その火事の熱気に僕は触れることになった。毎日僕と同じように学校に通い、同じ授業を受け、同じ宿題に悩み、コーヒーブレイクにリンゴをかじり、冗談を言って笑ったり笑わしたり、試験の成績を気にしたり、そうした僕の「クラスメート」達が、ついさっきまで戦場にいたわけだ。僕の隣にいる彼や彼女は戦争の中にいた。彼等の故郷は彼等の目の前でことごとく破壊された。

その現実感は、沖縄で生まれ育った父や母がよく話していた50年前の戦争体験から感じるものとは明らかに違うものだった。あの大戦の悲惨さ、特に陸上戦が行われた沖縄の状況は酷いものだったことは知っているが、しかしそのことを実感として捉えようとするのは難しい。怠惰な想像力に鞭を打ち幼少の父と母のあの日々のことを追体験しようとするが、生々しさはどうしたって体の芯に届いていかない。それはきっと時代の距離感だけでなく、世代の距離感と呼べるものの作用が大きいのだと思う。

たとえばボスニアから難民として移住してきたある友人の場合。ある時彼が日本のことをいろいろと僕に聞いてきた。もともと電気関係のエンジニアだった彼は日本のことにとても興味があるらしく日本の経済発展、テクノロジーの優秀さ、日本人の勤勉さ、そういったことを聞いてきた。真面目な話というよりも、ボスニアにいた時に聞き及んでいた東洋のミステリカルな国、日本に対して持っていた先入観がどこまでほんとか、という感じの話の途中だった。僕は日本の発展の末に失った「美しい国土」の話をし、現在もまだそれが延々と続けられ、「日本に住むとほんとにストレスを感じるよ」と彼に言った。それまであれやこれやとお互いの先入観や誇張を笑い合いながら話していたが、「ハジメ、ストレスというのは僕の国のことを言うんだよ」急に彼は真顔になりそう言った。その後彼は故郷ボスニアを追われた時のことを話し始めた。

「あの時僕たちは食事をしている最中だった。家族そろってだ。妻と二人の子供と、僕たちの家で。家、ああ僕たちの家。僕は家を持っていたんだよ、大きな暖炉のある広い家だ。金を借りてやっと手に入れた自慢の家だった。そう、そこで食事をしている時だ、突然兵士達がドアを破って入って来て、僕たち家族に外へ出るように命令した。着の身着のままだ。何一つ持ち出すことを許されず家の外に追い出されたんだ。だけどしばらくして、その兵士らのボスのような男に中に入るように言われた。ここにあるゴミなら持っていってもいい、その男は僕たち家族のアルバムや写真を指さして僕にこう言ったんだ。僕はアルバムや僕等の思い出の本や絵本を抱えられだけ持って表に再び出た。そしてそれが最後だった。それ以来あの家を見たことはない。

だけどな、ハジメ、僕は幸運だった方だよ。僕の友人の中にはそんな時に殺された奴だっているのだから。命さえも持ち出すことができなかったんだ。僕はラッキーな方さ。」

僕は、何も言えなかった。彼の、たどたどしいながらも慎重に言葉を選んでしゃべっている英語を、ただ聞いているだけだった。そして内心とても後悔した。平和の中で、まるで享楽を貪っているかのような日本にストレスなんて言葉を用いた自分の安易さを恥じた。

空気と安全はタダ、そんな神話の中で生まれ育った僕には、月世界の真空をイメージできないのと同様に、今もどこかで起こっている紛争の中で虐げられている人達のことを真に心からイメージすることはできない。しかし、この友人達の話を聞いている内に、その神話が迷信に過ぎないことが、はっきり分かってきた。何も聞かず、何も見ず、何も知らず、何も理解しなければ、世界は決してひとつにはならない。どこかで誰かと接し、共感して始めて点は線になり、いずれは網の目のように繋がっていくんだろう。そう簡単に「世界が一つになる」とは思わないが、その出発点があるとすればそういうことなんだろう。

移民の国、ここオーストラリアにもその出発点はあると思う。もちろん僕自身が網の目の一つになれるかどうかは僕自身にかかっているんだけど。