ブランコの快楽  
98.01.16

春樹が生まれてから、というよりもここパースで暮らすようになってから僕はよくブランコに乗っている。

 「望波亭・豪州別館」に越してきてから、息子の春樹と散歩に出ると、まあだいたい近くの公園に行っている。どこの公園もそうだけど、この公園にもプラスチックとビニールで被覆された金属できた巨大おもちゃ、つまりすべり台やら空中トンネルがある。子供向けの遊び場だ。そして砂場の中には必ずといってブランコがある。日本で普通に見掛けるブランコと若干違っていて尻を乗せる部分は長方形の木の板ではなく幅の広い厚手のゴムでできている。板と違い、小さなお尻から大きなお尻、この国でよく見かけるある程度巨大なケツまで様々な曲線にうまい具合にフィットするのです。

 ブランコといえば、いったい幾つの時まで僕はブランコに乗っていただろうか。小学生?うん、記憶がある。小学校の校庭の片隅にあるブランコに立ち乗りをしたことを憶えている。その頃ブランコから飛び降りてどれだけ遠くに着地できるかという競争が流行り、そして必然的に怪我少年が続発し、鉄パイプの囲いがめぐらされたことがあった。飛び降りる、そのちょうど着地しそうな所に子供の股の高さほどに太い鉄パイプの柵が作られ、少年達は、その鉄柵で怪我するのは嫌だったので飛び降り競争を止めざるを得なかった。いま思えばその事件がブランコが僕の生活の主人公たり得た最後だったのかも知れない。その後と言えば、中学校にはブランコはなかったし(おそらく)、高校生でブランコに乗った記憶も。いや、あったか?そうだ、ある女性、当時は女子高生だけど、その女性と那覇の与儀公園の二つぶら下がったブランコに並んで腰かけ、ゆらゆらと揺れながら夜が更けるまで一緒にいたことがある。彼女が18歳、僕が16歳の夏である。彼女は同級生にふられたというようなことを僕に打ち明け、まだじゅうぶん子供だった僕はそんなときに何を言っていいのかまるで分からず、ただ聞いていただけだった。気の利いたことを喋るでもなく、優しい言葉をかけるでもなく、僕はただ揺れていた。その時の記憶のベースはまさにブランコだ。だけどそのブランコはただ座っていただけで、まあ少々ゆらしたかもしれないが、いま僕が春樹に関して話そうとしているブランコとは違う。ブランコとは乗るものではなく漕ぐものなのだ。揺れるものなのではなく、揺らすものなのだ。

 始めに書いたように、「望波亭」から歩いてスワンリバーの方に降りて行くと小さな公園がありブランコが二つぶら下がっている。春樹がおとなしく、しかも大変協力的に乳母車に乗っていてくれれば五分だが、歩いて行くと主張されると場合によっては着かないこともある、それぐらいの距離だ。二つあるブランコのうち一つは明らかに子、座る部分がゴムでできているのは共通だが、相撲のマワシのような格好に帯状のゴムを張り合わせてある。腰回りの一方はゴムではなく掛けたり外したりできる鉄の鎖で、うまく体を支えられない小さな子供でも落ちずにブランコに乗れるという仕掛けだ。だから春樹も体を持ち上げヨタヨタと歩き始めた頃からブランコに乗ることができた。というより、乗せてしまうことができた。  

 さて二十年ぶりぐらいか、息子の横で僕はほんとに久しぶりにブランコに乗ってみた。頭に描いたのは、一漕ぎひとこぎに繰り返される上昇と下降のダイナミック。足で空(くう)を蹴り上げるごとに高く高く。風が自分の回りだけに起こる。前からびゅう、背中からびゅう。と、古き良き少年時代の爽快な汗の日々を期待しながらブランコに乗って漕いでみた。数回漕いでその爽快さが訪れないのを知った。酔うのだ。ブランコの揺れに酔うのだ。しかもまだ小漕ぎだというのにくらくらするほど気持ちが悪くなった。隣で春樹はずっと揺れ続けて、しかも嬉しそうに目を細めて空を行く鳥などを眺めているというのに。僕はブランコを降りて考えた。何が起きたのか。僕の何が違ってしまったのか。ブランコに乗って酔ったことなんか、そんな記憶は僕にはない。となると、内耳三半規管の環境変化に対する短期的適応力が低下したのか。ようするに、老化か!

 はたしてやはり大変久しぶりにブランコに乗った妻も、酔った、と言った。これは間違いない、僕の体だけに起きた個人的な変化ではなく、この年齢近辺の方々の共通した(といっても母集団は僕と妻の二人だけだけど)変化、つまりやっぱり老化なんだ。しかし僕は悔しい。この先おそらく結構まだ人生に先があるとして、ブランコの楽しめる人生と、ブランコに乗ると僕酔ってしまうので今日の所は皆さんお先に、と言う人生のどっちを選ぶのか。やはり颯爽とブランコに跨り「イーハー!」と叫ぶ男で有りたいではないか。元来負けず嫌いと言うよりは勝ち好きの僕としてはついついそんなふうに気持ちが走ってしまうのですね。それから毎日のようにブランコに乗った。春樹が散歩好きブランコ好きだから同伴の父が毎日ブランコに乗る機会があっただけで、ほんとは毎日トレーニングするぞーてな執念なんて全くなかったけれど、散歩のお供でブランコを漕ぐときだけは今日の三半規管の具合を気にかけて「訓練」の成果をチェックした。

 ところで春樹の適応はめざましかった。例のマワシ型ゴム椅子は、ほんとにうまい具合にできていて、ヨチヨチで体のまだ充分に大きくない「赤ちゃん」向けには、マワシの二つの穴に足をそれぞれ入れ、そして鎖の部分が背中になるように座らせる。体の重心はやや前に行くので、腹から胸にかけて幅の広いゴムの帯がそれを支える、といった案配だ。ブランコの揺れるたんびにスーパーマン状態になった子供が手をばたつかせて喜ぶ。その格好ではあまり揺らせるわけにもいかないので(本気でばんばん押すと多分ほんとに飛んでいくだろう)、夏の暑い夜にうちわでそよ風を送って寝かしつけるぐらいの気持ちでやんわりと押す。春樹もそれがスタートだった。そして日々の成長が、歩くから走るに移行するに従って、マワシ型ゴム椅子の座り方も変わった。次の成長ステップに移ると、両足を穴から出し、逆方向を向いて座らせる。背もたれのついたゴムの椅子に座っている格好だ。それでも前屈みになると簡単に落ちてしまうので腹の真ん前で鎖を掛けるようにする。この座り方になれてしまった彼は今やどんなに僕が思いきり押して漕いでも全く恐がらない。それこそびゅんびゅんと音を立ててブランコが空と地面とを行き来するのをケケケと笑いながら楽しんでいる。真っ青な空を北に向かって飛んでいく赤い尾翼のカンタス機を片手を離して指さしながら「ヒコーキ!」と叫んでいる。僕に、怠けずにもっと押せ押せと言っている、ようだ。一歳になりたてだったろうか、こいつを初めてブランコに乗せた頃、思いっきり漕いでこいつが喜ぶのは、そうだなあ、あと一年以上はかかるかなあ、とヨタヨタと砂の上を歩くような這いずるような春樹を見ていて思ったものだった。それが、いやいや半年だ。成長することが僕の仕事ですから、とでも言うかのように、きっちりこいつは毎日いや毎時間、発育し発達するのだ。こいつの三半規管は喜びに打ち震えながら適応の毎日を送っているのだ。

 さて、俺。俺も適応した。三半規管が適応したのか、イメージトレーニングが功を奏したのか、それはあまり今は問わない。僕の方は一年近くかかった。もちろん酔うことは酔う。しかし、僕はその酔いをしばし忘れてブランコを漕ぐ喜びを味わえる。あの真和志小学校の鉄パイプから三十年近く経った今、天と地を繰り返しくりかえし行き来する永久運動に身を置くことができる。

 まず、曲げた膝を思いっきり伸ばす、鎖をつかんだ腕に全体重をかけて体を背中の方に倒す。ぐーんと空が近づく。午後の太陽が一瞬静止した後、体は重力を受け地面に引き戻される。戻されつつ再び膝を曲げる。揺り戻される。今度は後ろへ飛ばされる。ふわっと体が浮いた後、グッと下降。風が地面から吹く。そしてまた空へ上昇。膝をぴんっと伸ばす。漕ぐ漕ぐ。再び空を真正面にした一瞬、重力がなくなり僕は宙に浮く格好になる。青空が目の前に止まっている。ぶーんぶーん。膝と腕の規則正しい運動が僕を宙と地の終わることのない旅行へと連れていってくれる。まるで宇宙旅行だ。この心地よさに身をゆだね、この幸せをじっくり味わおうと目をつぶった。すると貯め込んでいた分まで、しっかりと酔った。慌てて目を開けたが、もはや続けられなかった。そんなもんだ。

 春樹は最近どうやらブランコにあまり興味はないみたいだ。というわけで、必然的に僕もブランコに乗る機会が少なくなった。かつて達成したあの充足感を今まだ味わえるか、今はあまり自信がない。しかし、芝生や砂場を裸足で歩く気持ちよさを知っている。すべり台を滑るときのちょっとした思いきりのようなものを思い出せる。螺旋型のすべり台なら、あの終わりの見えないワクワクがある。春樹はこんな時こんなこと感じているのかなあ、そんな気持ちがしみ込んだかのように、夏の夕方息子と散歩する僕は感じています。