望波亭概略 
1999年7月28日

西オーストラリアのパースに移り住んできたのは1996年の暮れだった。妻と僕、そしてまだ一歳にもならぬ春樹の、三人である。もともとオーストラリアの永住権を持っていた妻がスポンサーになり、配偶者の私と息子の春樹も何とかオーストラリアの永住権を手にすることができた。そして僕らは日本を飛び出したわけだ。それから三年近い時が流れ、家族は三人から、花を加え四人になった。

移住をはかるまで僕らは日本海の小島、隠岐之島に住んでいた。そこにある小規模の病院に僕は2年半ほど勤めていたが、その間に妻が「ホームグランド」のオーストラリアから隠岐にやってきて一緒に暮らし始めた。そして妻の妊娠と出産。子供をもったことが直接の理由ではないが、でもそのことが僕らの日本脱出の引き金のひとつになったことは確かだ。そして僕らはここパースに移住してきた。

実際の所、一カ所に3年以上いることは僕にとって非常に稀なことだ。それは妻にとってもそうだった。もうかれこれ20年近く、僕は住処(すみか)を転々としてきた。「生まれ島」沖縄から始まった「何処かにある何か」を求める僕の旅は南極や隠岐之島を経て、今オーストラリア・パースに行き着いている。だが決してここが最終地点ではない、いつも心の深いところにそう感じている。しかし、人は何処かにくさびを打ち込まなければならない。そこを通ってきた証として、自分が生きてきた証として。

「望波亭」という名は、かつて僕らが暮らしていた隠岐之島の古家につけた名前だ。山裾に建てられた一軒家を借り受けて、そのころ僕らは生活していた。玄関の先からの短い階段を下りて小さな堤防を越えると、もうそこは海だ。天然の良港、西郷湾をすぐそこに見下ろす、文字通り「波を望む」毎日だった。オイルを張ったかのような真夏のベタ凪の海、冬の早朝の濃霧、日本海の激しい低気圧、定期船の汽笛、造船所のグラインダーの音、夏の羽虫の群、そして春樹の笑う声。そういった風景に囲まれて僕らは生活していた。

そして、パース。今の住居はカニングリバーから少し離れた緩やかな斜面地にある。西向きの窓からは、いくつかの住宅の屋根とフリーウェイの向こうにカニングリバーの幅の広い川面が見える。風の強い日には確かに波が立っているのも見える。そういったわけで、僕らはここを「望波亭・豪州別館」と呼ぶことにした。隠岐は本館だ。この先もきっとこの名を僕らの住処に継承させるだろう。しかし、この先もし海や川が目の前に見えないところに住むことになったら「望波亭」の名は使えなくなるなあ、とそういう心配もなかったわけじゃない。しかし、もうそんなことはどうでもいいのだ。波が見えようが見えまいが、すでに「望波亭」という名は我々家族が今ある場所を指す言葉になっているのだ。

そうだ。我々の今あるもう一つの場所、インターネットの上でも「望波亭」を名乗ろう。僕が、妻が、子供達が、それぞれのくさびを打ち込む場所として。