●2001年9月5日

「ワンストーリー・スリームービー」

「ジュラシックパーク3」を観てきた。ミーハーと言わないで欲しい。よく分かっているから。

これから観るつもりで、まだ観てない人には申し訳ないが、「まあ、こうなるしかないんだろうな」と言う感想だ。どう転んでも、繰り返すしかないのだろう、あのお話しは。

これはもう随分前からのハリウッド作品に共通することなんだけど、「ワンストーリー・スリームービー」といった法則のようなものがあるんじゃないだろうか。「ジュラシックパーク1」は、発想としては良くできた映画だった。映画の善し悪しと言うよりも、あれはもう発想の勝ち!といった感じだ。その後の「2」はご存知の通り、ようするに「1」の延長。それをいかに面白くハラハラに持っていくかという映画技術の勝負といった感じがした。

で、「3」だ。基本的に「君たち(恐竜たち)がいて、あ、僕がいる」なので、その君たちを誰にするか、僕たちを誰にするか、もうそれしかないわけです。それで思い出すのが「エイリアン」シリーズ。あれも基本的には「君たち(エイリアンたち)がいて、あ、僕がいる」なのですね。ストーリーは一つ、そして映画は三つ。この仕組みはハリウッドの基本なのかとも思う。

その法則に則ってないのが「スターウォーズ」シリーズ。あれは最初から一つのストーリーを確信犯的に分断するという手法なので、続編になったからといってストーリーが増えているわけではないのだ。あくまでもあれも一つのストーリー。

話は「ジュラシックパーク」に戻るが、まあ、有り体に言えば、観客は同じストーリーだと言うことを知っているわけだ。その上で観に行くわけだ。水戸黄門じゃないけれど、やられそうやられそう、きゃー!というカタストロフィーを求めに行くわけで、誰もきっとアナザーストーリーを求めてはいないのだ。かく言う僕も、結局誰と誰が助かって脱出できるか、今思うとそれだけを考えながら観ていたわけで。

ところで、まるで本物のような恐竜が画面を歩き回ったり人を襲ったりするのは、もはや「ジュラシックパーク」を観る人達にとって当たり前のことで、ほんの細部のディテールだけが印象に残っているということは、特殊撮影やCGを操る人々にとって、幸せなことなんだろうか。本物のようだ、というのはもはや価値じゃなくなったのだろうか。ほんの十数年でこんなにも麻痺してしまうのか。余談だが、こうなってくると、自分の目で直接確かめたもの以外は、どんなウソもリアルたり得ると心しなければならないのだろうか。映像というものの持つ本来の力が、もしかしたら少しずつその基盤をずらしてきていないだろうか。そんなことも心配したりした。

それにしても、あのストーリーの導入部分はちょっと無茶で強引だったぞ。