夢の講座


今朝の朝日新聞インターネット版で東京の桜が開いたことを知りました。今頃日本の皆さんは、特に厳しかった今年の冬の終わりにホッとすると同時に、暖かな春の訪れに心踊っていることと思います。

そしてここ南半球のパースは今、秋に向かっています。40度近い暑さの夏を乗り越え、やっと一息ついています。たまらんたまらんとあれほど騒いでいたのに、過ぎ去ってみるとゲンキンなもので、もう少しビーチに通っておけばよかったなあなどと、僕も妻もほざいてます。

ところで僕は最近から「夢の講座」に通ってます。とは言っても、夢のような甘美なお話が聞けるとか、酒池肉林的状態で夢見心地になれる場に参加できるとか、そんな「夢」ではなく、いわゆる「夢分析」のあの「夢」です。

夢分析というと、ヘビが出る夢はどうだとか、初夢はやっぱり富士鷹茄子に限るとか、そんな安易な夢の解釈も一時期はやりましたが(心理テストがブームだったことがありましたね)、そんなんじゃなくもっとシビアなものです。「私にとって」この夢は何を意味しているのか、という地味で深い解釈を伴うものです。

日中我々が覚醒しているときは自我を中心とした「意識」が前面に出ていますが、いったん肉体が眠りに落ちるとその意識も目を閉じてしまう。そこに浮かび上がってくるのが「無意識」の世界です。無意識は夢を媒介にして毎夜我々にメッセージを送り続ける。傷ついた肉体が休養を求め、その間に自然の治癒力が働くのと同じように、日常の社会生活の中でバランスを崩し傷ついた精神は、眠りという意識の休憩時間に夢の癒しを得ているのです。

つまり我々は毎晩、癒しのヒント、つまり無意識からのメッセージを受け取っているのです。それを媒介しているのが夢なのです。それを解釈分析しようじゃないかというのが夢分析の手法です。だからこれはきちんとした精神分析学の一部門、つまり学問です。

しかし、この夢分析という学問は非常に危うい土台に乗っかっていることに気付きました。ある心理療法家のもとで少人数のゼミといった感じでやっている講座なのだが、そのゼミの間中、常に拭いきれない違和感を僕は覚えています。初めはその気分がどこから来るのかよく分からなかったのですが、最近それはどうもその「危うい土台」から来てるんじゃないかと思っています。

つまり、意識や無意識が存在しているということ、単純に考えて誰がそれを保証できるのか。意識を構成している自我や超自我やイドなんてものがほんとにあるのか。それはどこにあるのか。要するに見えもしなければ証明もできないあやふやなものをあやふやだと認めた上で成り立っている学問なわけです。信じているからこそ前に進めるわけです。でもこれはほんとに危うい。

もちろんどんな学問だって、いわば幻想の土台の上に成り立っているものでしょう。そのことは、僕らの講座の主催者である心理療法家も指摘していました。例えばかつて僕が身を置いていた西洋医学の世界もそうだといえます。西洋医学の選んだ道は、肉体というものを臓器レベルから細胞レベル、果ては遺伝子つまり分子レベルに至るまで分解しつくし、そこから演繹的に肉体を構成しなおそうという方法論を採っているものです。しかしそこには、分解と組立は時間的にも空間的にも常に連続しているとか、現在未解決の問題があったとしても現在の分割レベルの先にその解決法があるに違いないとか、と言ったどこか楽観的で無邪気な信念があるといってもいいでしょう。西洋医学もある種の幻想を土台とした学問なのです。おそらく東洋医学も一種の「信心」がその根底にある。

話しは少しずれるかも知れない。東西それぞれに得意不得意の分野があるのは事実ですが、理論的にはどんな疾患(これは西洋医学的用語ですが)に対しても、西洋医学的アプローチと東洋医学的アプローチの両方が可能です。異なった世界観の中で培われたアプローチのどれにも肉体は反応し治癒に向かうわけで、これは考えてみれば不思議なことです。肉体の起こりというものが、一つの土台の上にきちんと収まっているのなら、その土台の上に成り立つ方法論こそが正しく作用するはずです。しかし現実はそうではない。肉体はいくつものオプションに対してそれなりに反応するのです。これは実は大変奇妙なことだと思います。

つまり共同幻想がこの世界を司ってるんじゃないだろうか。西洋医学という土台を信じているからこそ、それに乗っかったアプローチが功を奏する。「鰯の頭も信心から」とは、幻想を現実化していく、つまり無から有の世界を作り上げていくというアプローチの問題だったのです。

ということを考えたとき、フロイト、ユングから連綿と流れて発展していった精神分析学の顕わす「精神構造世界」とは、やはり一種の幻想であると言っていいのでしょう。意識や無意識が存在していると無意識ながら信じている我々は、その世界構造に入り込んでいるのです。つまり夢分析を充分受け入れる土壌にあるといえるのです。

しかし、と、そこまで考えて僕はまた振り出しに戻る。

知識として意識無意識を知ってはいても、実感としてそれを捉えていない僕は、夢分析の成り立つ世界にきちんと立っているのだろうかと。ゼミの間に感じる例の違和感はそう簡単には払拭できないに違いない。

でも、そのことを見極めるためにも、もうしばらく、いや最後まで「夢の講座」を受けてみよう。と思っている。

2000年3月30日 望波亭旦那