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新年の御挨拶(2000年編)
●旦那より新年のご挨拶
新年明けましておめでとうございます。
例年になく雷雨の多い夏のパースですが、降っても湿度は上がらず、今のところ過ごしやすい日々を送っています。皆さんはどういう正月を送っていますか。
昨年は僕の南極行きのために家族が離れて正月を迎えることになりましたが、今年の正月は全員パースで過ごせます。家族が一緒にいるというささやかな歓び−単純ですが大事なことに今さらながら気が付いたこの一年でした。
ご存知かも知れませんが、一昨年11月出航の第40次南極観測隊(夏隊)に僕は参加しました。4ヶ月余の南極観測を終え、昨年の3月末に日本に戻ったのですが諸々の片付けと里帰り、花の一歳の誕生日で忙しく、5月中旬になってやっとパースに戻ってきました。子供達にとっては、日本−オーストラリア間での移動移動の一年でした。目まぐるしい環境の変化を強いたことになったなあと、分かっていたこととは言え今さらながら申し訳なかったと思っています。
今回の南極観測で僕が参加したオペレーションは、悪天候にやられ当初の目的を果たせないまま中止撤退という結果になりました。その事そのものはとても残念だし悔やまれることなのですが、フィールド計画の立ち上げ方や現場での優先順位の選び方、経験と理屈との折り合いの付け方、そういったものが学べたことはとても良かったと思います。付け加えれば、人間は風で飛ぶということを(打ち身と共に)身をもって知ったことも貴重な経験です。
そしてそれ以上に家族のことを考えたという点では決して無駄な「別居生活」ではなかったと思っています。離れて分かるナントカです。
例えば妻の理江には信頼と感謝です。越冬隊の1年余りと比べると、たかが4ヶ月家を空けるだけの夏隊だけど、それでも南極の場合は正真正銘の別れです。家族の誰それが急病で、なんて理由では帰国できません。だから家族のもとを発つとき、とにかく一切合切を誰かに預けなければなりません。僕にはそれが妻でした。彼女に二人の子供のこと、そして生活の煩わしさすべてを任せて旅立ちました。彼女にとってそれは大きな負担だったろうし、文字通り重荷だったと思います。今でも思い出すのは、4ヶ月半振りに南極から日本に戻ったとき、まだ一歳にもならない花が気管支炎で入院していたことです。元来喘息気味の子で、出航の前からずっとゼーゼーと荒い息を聞かせていたのですが、まだ充分寒い春の日に風邪をひいてこじらせてしまい、ついに入院という羽目になったのです。もちろんそれは誰のせいでもありません。しかし妻は花の体調が崩れたのは自分の責任だと思い込み、成田で僕を迎えた時、何よりも先に「ごめんなさい」と言ったのです。ああ、きっと妻は抱えきれないほどの大荷物を必死になって守っていたんだなあと、僕の方が「すまなかった」の心境でした。
子供達。出航の時に6ヶ月だった花はおそらく父の記憶を持たないままあの4ヶ月を過ごしたことでしょう。帰って来てからもきちんと人見知りをされしばらく困りました。問題は二歳の春樹でした。春樹は隠岐病院で僕に取り上げられて以来ずっと一緒に父と生活を送ってきた「父ちゃんっ子」です。それだけに、この「別れ」が春樹に与える影響(おそらく悪影響)は誰にも想像がつきませんでした。4ヶ月という月日をどうやって二歳児に説明しましょうか。南極という距離をどうやって教えたらいいのでしょうか。何故父は自分のもとを去っていくのか。その疑問に対する春樹の態度はこうでした。「なんきょく、たたいちゃう」「しらせ、たたいちゃう」「けんきゅう、たたいちゃう」。春樹は何でもかんでも叩きました。嫌いなもの、自分を不幸にするもの、父を連れていったもの、そういう忌むべき事柄をすべて言葉で駆逐していったのです。だけど一夜明けても父は来ない。百数十日の繰り返しの後、春樹は成田で父と再会しました。明るく顔を上げている母と祖父の間に挟まれて、春樹は照れと緊張でずっとうつむいていました。しかし父に抱き上げられたとき、もう二度と離してはならないと2本の腕をぎゅっと父の首に回していたのでした。
パースに戻り半年が経ちました。よそよそしかった花も今では「とおたん」と僕を呼びながら、のっしのっしと廊下を歩いてくるし、そろそろ四歳になる春樹はいつか僕と一緒に「しらせ」で南極に行く日を夢見ているようです。妻も僕も家事を分担しながら、何とかそれぞれの時間を作り合い(今のところ僕の時間がほとんどですが)、少しでも将来への道筋を作ろうと考えています。やっと殊勝なことが言えるようになりました。
これからパースは暑さが本格化します。摂氏40度の日々も年明けすぐにやってくるでしょう。ビーチとビールの季節です。コタツと蜜柑の国を思い出すことも多いのですが、取りあえず20世紀最後の年も僕らはここで生きていきます。
●女将より新年のご挨拶
新年あけましておめでとうございます。
1999年は肇不在で明けました。彼が3月に南極から帰ってくるまでの間に私の胃炎、花の気管支炎入院騒ぎなどあり、肇が帰ってきてからは初めて花を沖縄に連れて行って親戚知人にお披露目するなど派手なイベントは年の前半に集中しました。1999年5月20日、奇しくも私の誕生日にパースに戻ってきて私達一家四人の新しい人間関係が地味に始まりました。思えば1998年4月、花出産前から山内・吉田両家の母達が手伝いに来てくれて以来銚子の実家、パースの我が家と場所は変わっても常に義母か私の両親が一緒でしたから、丸一年振りに一家四人というユニットに戻ったわけです。「戻った」というのは少し違いますね、四人家族というのは経験したことがなかったのですから。四人だけになってすぐの頃は「誰かが欠けている」という寂しさがありましたが、それも優しい日常の中で癒されてゆき、今は花を除く三人がそれぞれ父、母、兄としての役割を自覚しながら日々を送っております。ひょっとしたら花にもそれなりの自覚があるのかも知れませんが・・・・パースに戻ってからは時折起こる子供達の発熱・発疹等がドーンと生活の中心を占めてしまうような、言ってみれば平和な毎日です。
春樹は去年の今頃陥っていたアイデンティティー・クライシスからは抜けたようで、今はプレーグループでも楽しそうにしています。花の理解度が赤ちゃんから子供になるに伴い、春樹のいい兄ちゃん度も上がってきているようです。年が明ければ彼も幼稚園。こちらの幼稚園は週2日、半日ずつだけなのですが、私達にはそれで丁度良かったなぁと思っています。これはどこにいてもそうなのでしょうけれど、特に「言葉」が障壁になっている状況下では集団のなかでの彼が心配なのです。花はひたすら成長しています。歩き始めたのが遅かったのですが(1歳5ヶ月)あの太い足は伊達ではなく、最初の一歩が出たらあとはかなりの距離をかなりの早さで転びもせずにノッシノッシと歩いています。言葉も順調に発達しているのでしょう。しょっちゅう歌っています。春樹と大きく違うのは一人で遊ぶことですね、やはり二人目だからなのでしょうか。あとは兄ちゃんにちょっとでも叩かれようものならバンバンバンバンと凄い勢いで十倍返しをしています。これは二人目だからなのか女の子だからなのか分かりません。両方でしょうか?
肇はやっと念願の執筆活動に入っています。私も翻訳してみたいと思う本があるのですが「肇の本の目処が立ってからでないと・・・」というのを言い訳にまだ何の行動も起こしていません。「二児の母になった」「幼稚園児の母になる」ごときの事では人の性質というのはなかなか変わるものではないのでしょう。それはそれ、これはこれで子供達を叱らなくてはならないのですから、私も大変です!?
それでは心穏やかに過ごす南半球パースより、皆様のご健康と
実り多き2000年をお祈りいたしております。
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